保岡興治は、昭和十四年五月十一日、東京都で生まれた。日比谷高校を卒業後、昭和三十五年四月、中央大学法学部に進んだ。
父親の保岡武久は、代議士であった。鹿児島県副知事を経て、昭和二十九年、奄美群島の日本復帰にともなう奄美群島区の再選挙で当選。池田派宏池会に所属し、池田内閣の官房副長官、郵政政務次官などを歴任した。
保岡は、中学時代から父親の選挙運動を手伝った。奄美群島の隅々まで回った。飛行機もなく、船も小さい時代である。舗装もされていないデコボコの道を夜中に何時間もかけて歩くこともあった。
保岡はおもうようになった。
昭和三十九年三月、保岡は、中央大学法学部を卒業した。この年十月には、司法試験に合格。司法研修所で司法修習生として研修した後、昭和四十二年四月、希望して郷里の鹿児島地方裁判所に裁判官として赴任した。
四月十五日、鹿児島県会議員選挙がおこなわれた。小中学校時代の同級生から紹介された長野祐也が出馬した。長野の決起集会には、この年一月の総選挙で初当選したばかりの山口敏夫代議士が駆けつけた。
山口は、このとき二十六歳であった。小柄で童顔のため、よけいに若く見えた。 保岡は、おおいに刺激を受けた。
鹿児島地裁に赴任してまもなく、判事補研修で上京した。その際、父親の所属している宏池会の事務所に顔を出した。このとき、父親は、昭和三十八年、四十二年の総選挙で相次いで落選し、浪人中の身であった。
保岡は、前尾繁三郎、大平正芳、鈴木善幸ら幹部や父親の友人である熊本一区選出の大久保武夫らに相談した。
「わたしも、政治家を目指しています。できれば、次期総選挙に出馬したいのですが、いかがでしょうか」
かれらは、一様に口をそろえた。
「ちょっと早いんじゃないか。裁判官をしばらくつづけた後、出たらどうか」
そうアドバイスされ、保岡は、五年後に目標を定めた。
昭和四十三年四月、奄美群島区選出の伊東隆治が死去した。急遽、補欠選挙がおこなわれることになった。落選中の父親は、引退表明こそしていないが、政界から身を引くつもりのようであった。落選後は、地元まわりもまったくしていなかった。
保岡は、決意した。
保岡は、わずか一年で裁判官を退官した。
しかし、ここで誤算が生じた。父親が、後援会の要請を受けてもう一度挑戦することになったのである。さすがに、父親を押しのけて自分が出るわけにはいかない。
保岡は、中学生の時から手伝ってきた父親の選挙を、思いも新たに全力で戦った。選挙の結果、父親は四度目の当選をはたした。
保岡は、弁護士登録をし、鹿児島県名瀬市に事務所をかまえた。
あるとき、父親にいわれた。
「小渕(恵三)君が、奄美を見たいといっている。おまえが、案内をしてくれ」
小渕は、佐藤派の二回生であった。学生時代から沖縄の本土復帰問題に関心をもち、何度も沖縄を訪れた。このとき、沖縄及び北方問題に関する特別委員会の理事であった。
今回、夫婦で沖縄に行く予定だが、その前に昭和二十八年に本土復帰した奄美群島の復興ぶりを視察し、沖縄復興の特別措置法の参考にしたいという。
保岡は、小渕夫妻を本島の徳之島に案内した。保岡は、自分より二歳年上の小渕と意気投合した。これが縁となり、親交を深めていくことになる。
昭和四十四年十二月七日、総選挙が公示された。保岡武久の最大のライバルは、保守系無所属の新人豊永光であった。中曾根派幹部で鹿児島出身の山中貞則が、自分の子分である豊をぶつけてきたのだ。
保岡武久は、苦戦した。保岡は、後援会の幹部に指示された。
「選挙資金が足りない。きみは、先生の身内なんだから、東京に行って資金をもらってきてくれないか」
保岡は、ただちに上京した。宏池会事務所に飛び込み、鈴木善幸に頼んだ。
「選挙資金の補充をお願いします」
鈴木は、自分の名刺を取り出した。スラスラと用件を書き込み、保岡に手渡した。
「これを持って、党本部の二階堂(進)副幹事長を訪ねなさい」
保岡は、すぐさま党本部に向かった。
二階堂副幹事長に会い、鈴木の名刺を渡した。
「よろしくお願いします」
鹿児島出身で、保岡の父親とも親しい二階堂は答えた。
「わかった。いっしょに角さんのところにいこう」
角さんとは、田中角栄幹事長である。
保岡は、二階堂に連れられて幹事長室に入った。
二階堂の説明を受けた田中は、札束を取り出し、ダミ声でいった。
「これを持っていけ。しかし、これは、きみのお父さんにではない。きみに期待して、渡す」
田中とすれば、自らの天下取りのために子飼いの若手議員を増やそうという意識でいたのかもしれない。政治家を目指そうとする新人を激励しておけば、やがて自分を頼ってくるはずだという計算が働いていたのか。
が、保岡は、田中の思惑など察するべくもなく、きみに期待して、という言葉が素直にうれしかった。