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興治通信71号

指宿、川辺、知覧、加世田、枕崎に朗報

・5月18日(火)、九州地方建設局鹿児島国道工事事務所の増田博行所長は、鹿児島商工会議所で開かれた国道226号整備促進協議会(会長 岩崎福三商工会議所会頭、顧問 赤崎義則鹿児島市長・田原迫要指宿市長)の総会で、国道226号線(指宿〜鹿児島間)の平川道路の拡幅計画について、現在、都市計画に向けて関係機関と調整中であるが、慢性的渋滞地域となっている平川交差点などこの区間の混雑緩和のため、夏までに事業計画の地元説明会を開き、整備の促進をはかりたいと発表した。
・この計画は、保岡代議士が旧1区の選挙区時代から最重要問題として、指宿市をはじめ地元関係者の皆さんの熱心な要望を受け取り組んできたもので、現在、2区の園田修光代議士を中心に促進に全力をあげており、この度の実現にこぎつけたもの。
・保岡代議士は、「平川道路拡幅計画のスケジュールに見通しがついたことで、旧選挙区でお世話になった指宿は勿論、川辺、知覧、加世田、枕崎の皆さんにとって朗報だ。お役に立てて嬉しい。」と、語る。


日の丸・君が代について

・政府・与党は、日の丸を国旗、君が代を国歌と定める「日の丸、君が代」法案の今国会提出を慎重に見極め中。場合によっては、幅広い国民の支持を得るため、学者・有識者等による懇談会を設け、法案の性格・内容等を幅広く議論したうえで次の国会に提出することも検討。
・日の丸、君が代は共に私達鹿児島に縁が深い。
・日の丸は日章旗とも呼ばれ、太陽をかたどったものであることは周知の事実。自らの国を「日いずるところ」といった日本民族が早くから日の丸のしるしに特別の感情をいだいていた。
・幕末にペリーの来航に驚いた幕府は、1853年、薩摩の島津斉彬公が、大船の建造許可と日の丸国章制定を願い出て,翌年老中阿部正弘が大目付に伝え、諸藩に布告。日の丸は日本のしるしとして、対外的に意味を持つようになる。
・1870年(明治3年)には、太政官布告を出して日本の商船は日の丸を国旗として掲げることとし、国旗の寸法を長方形の旗とし、縦横比は7:10、日章の直径は従幅の3/5、その中心は中心から旗竿の方に1/100ずらすことにした。
・君が代の歌詞は、和漢朗詠集、古今和歌集に読人しらずとして記されている。1870年(明治3年)当時、唯一の洋風軍楽隊をもっていたわが薩摩藩が、諸外国に国歌があることを知って「天皇に対し奉る礼式曲」の必要を感じていた。その歌詞に薩摩藩士たちがめでたい時に用いていた「君が代」を大山巌らが選び、薩摩藩軍楽隊の教師だったイギリス人のフェントンに作曲させた。しかし、不出来だったので、海軍省が宮内省の雅楽課所属の楽士たちから作曲を募り、林広守が選ばれた。そして、雅楽調の壮厳さのある現在の君が代の曲が生まれた。
・鹿児島には、君が代発祥の地として注目をあびている薩摩郡入来町の『入来神楽』があります。神舞を奉納する入来町の大宮神社の周辺には、集落名「日ノ丸」の地名も残っています。入来町のホームページでは、入来神楽等について紹介されています。
・姶良郡霧島町にある霧島神宮には、君が代の中に出てくる『さざれ石』があります。この岩は、岐阜県揖斐郡春日村の山中で採れた石で、昭和62年4月29日の天皇誕生日に霧島神宮に奉納されたものだそうです。
・『さざれ石』とは、石灰石が雨水に溶解して、その石灰分を含んだ水が粘着力の強い乳状態となり、地下で小石を集結して大きくなり、巌となるもの。
・保岡代議士は、「日の丸・君が代と鹿児島がこんなに係わりがあることなど歴史を知ることや、国旗・国歌として正式に位置付けることはとても大切であると思う。」と、語っている。