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保岡興治は、昭和十四年五月十一日、東京都で生まれた。日比谷高校を卒業後、昭和三十五年四月、中央大学法学部に進んだ。
父親の保岡武久は、代議士であった。鹿児島県副知事を経て、昭和二十九年、奄美群島の日本復帰にともなう奄美群島区の再選挙で当選。池田派宏池会に所属し、池田内閣の官房副長官、郵政政務次官などを歴任した。
保岡は、中学時代から父親の選挙運動を手伝った。奄美群島の隅々まで回った。飛行機もなく、船も小さい時代である。舗装もされていないデコボコの道を夜中に何時間もかけて歩くこともあった。
保岡はおもうようになった。
<政治家になって、こんな不便さを解決するために役にたちたい>
昭和三十九年三月、保岡は、中央大学法学部を卒業した。この年十月には、司法試験に合格。司法研修所で司法修習生として研修した後、昭和四十二年四月、希望して郷里の鹿児島地方裁判所に裁判官として赴任した。
四月十五日、鹿児島県会議員選挙がおこなわれた。小中学校時代の同級生から紹介された長野祐也が出馬した。長野の決起集会には、この年一月の総選挙で初当選したばかりの山口敏夫代議士が駆けつけた。
山口は、このとき二十六歳であった。小柄で童顔のため、よけいに若く見えた。 保岡は、おおいに刺激を受けた。
<国会には、ある程度社会的経験を積んだひとが出るものだと思っていたが、こんなに若い政治家もいるのか。政治家というのは、若いときから挑戦しなければ駄目だ>
鹿児島地裁に赴任してまもなく、判事補研修で上京した。その際、父親の所属している宏池会の事務所に顔を出した。このとき、父親は、昭和三十八年、四十二年の総選挙で相次いで落選し、浪人中の身であった。
保岡は、前尾繁三郎、大平正芳、鈴木善幸ら幹部や父親の友人である熊本一区選出の大久保武夫らに相談した。
「わたしも、政治家を目指しています。できれば、次期総選挙に出馬したいのですが、いかがでしょうか」
かれらは、一様に口をそろえた。
「ちょっと早いんじゃないか。裁判官をしばらくつづけた後、出たらどうか」
そうアドバイスされ、保岡は、五年後に目標を定めた。
<鹿児島で三年、東京か大阪で二年、少なくとも、この五年間は裁判官をつづけよう。その後、チャンスがあれば思い切って国政に挑戦しよう>
昭和四十三年四月、奄美群島区選出の伊東隆治が死去した。急遽、補欠選挙がおこなわれることになった。落選中の父親は、引退表明こそしていないが、政界から身を引くつもりのようであった。落選後は、地元まわりもまったくしていなかった。
保岡は、決意した。
<自分が出よう>
保岡は、わずか一年で裁判官を退官した。
しかし、ここで誤算が生じた。父親が、後援会の要請を受けてもう一度挑戦することになったのである。さすがに、父親を押しのけて自分が出るわけにはいかない。
保岡は、中学生の時から手伝ってきた父親の選挙を、思いも新たに全力で戦った。選挙の結果、父親は四度目の当選をはたした。
保岡は、弁護士登録をし、鹿児島県名瀬市に事務所をかまえた。
あるとき、父親にいわれた。
「小渕(恵三)君が、奄美を見たいといっている。おまえが、案内をしてくれ」
小渕は、佐藤派の二回生であった。学生時代から沖縄の本土復帰問題に関心をもち、何度も沖縄を訪れた。このとき、沖縄及び北方問題に関する特別委員会の理事であった。
今回、夫婦で沖縄に行く予定だが、その前に昭和二十八年に本土復帰した奄美群島の復興ぶりを視察し、沖縄復興の特別措置法の参考にしたいという。
保岡は、小渕夫妻を本島の徳之島に案内した。保岡は、自分より二歳年上の小渕と意気投合した。これが縁となり、親交を深めていくことになる。
昭和四十四年十二月七日、総選挙が公示された。保岡武久の最大のライバルは、保守系無所属の新人豊永光であった。中曾根派幹部で鹿児島出身の山中貞則が、自分の子分である豊をぶつけてきたのだ。
保岡武久は、苦戦した。保岡は、後援会の幹部に指示された。
「選挙資金が足りない。きみは、先生の身内なんだから、東京に行って資金をもらってきてくれないか」
保岡は、ただちに上京した。宏池会事務所に飛び込み、鈴木善幸に頼んだ。
「選挙資金の補充をお願いします」
鈴木は、自分の名刺を取り出した。スラスラと用件を書き込み、保岡に手渡した。
「これを持って、党本部の二階堂(進)副幹事長を訪ねなさい」
保岡は、すぐさま党本部に向かった。
二階堂副幹事長に会い、鈴木の名刺を渡した。
「よろしくお願いします」
鹿児島出身で、保岡の父親とも親しい二階堂は答えた。
「わかった。いっしょに角さんのところにいこう」
角さんとは、田中角栄幹事長である。
保岡は、二階堂に連れられて幹事長室に入った。
二階堂の説明を受けた田中は、札束を取り出し、ダミ声でいった。
「これを持っていけ。しかし、これは、きみのお父さんにではない。きみに期待して、渡す」
田中とすれば、自らの天下取りのために子飼いの若手議員を増やそうという意識でいたのかもしれない。政治家を目指そうとする新人を激励しておけば、やがて自分を頼ってくるはずだという計算が働いていたのか。
が、保岡は、田中の思惑など察するべくもなく、きみに期待して、という言葉が素直にうれしかった。
<自分の将来に期待して激励してくれたのだろう>
十二月二十七日、総選挙の投票がおこなわれた。保岡武久は、豊に二千七百差をつけられて落選した。
父親は、引退を口にした。
「おれは、もう出ない。おまえが出たいというなら、やりなさい」
保岡は答えた。
「わかりました」
保岡は、出馬の準備をはじめた。宏池会にも、連絡を入れた。
が、宏池会からは、ああしろ、こうしろ、という明確な指示がなかった。そもそも宏池会には、若手候補に眼をつけてグイグイ引っ張るという雰囲気はなかった。“公家集団”といわれるように官僚出身者が多く、ある程度キャリアを積んでから転身するというパターンがつづいていた。
このままでは、埒が明かない。保岡は、佐藤派の小渕恵三に相談した。小渕は、親身になって相談に乗ってくれた。
保岡は、小渕に頼んだ。
「じつは、今度、結婚します。仲人を紹介してくれませんか」
小渕は、人懐っこそうな笑みを浮かべた。
「おれがやってあげたいけど、そうはいかんだろう。そうだな、橋本(登美三郎)先生にお願いしてみたらどうか。なんなら、連絡しておいてあげるよ」
橋本は、いわゆる佐藤派五奉行のひとりであった。仲人として文句のつけようがない大物議員である。
保岡は、小渕の紹介で橋本と面会した。
橋本は、仲人役を快諾した。おまけに秘書の肩書まで与えてくれた。「橋本登美三郎秘書」という肩書は、選挙運動をするうえで大いに役立った。
昭和四十六年十一月、保岡は、橋本夫妻の媒酌のもと武田芳枝と結婚した。小渕は、公務のため日程が取れず、代わって千鶴子夫人が披露宴に出席してくれた。
いっぽう、保岡は、佐藤派の柴立芳文から激励された。柴立は、参議院鹿児島選挙区選出の参議院議員であった。
「きみ、がんばっているな。ところで、角さんとは会ったか」
「親父の選挙のときに党本部で一度お会いしましたが、出馬を決めてからは会っておりません」
「それじゃ、一回会いにいこう。目白に連れていってやるよ」
保岡は、柴立に連れられて目白台の田中邸を訪ねた。
保岡は、あいさつした。
「今度、奄美群島区から出馬します。よろしくお願いします」
「そうか、がんばれ」
田中は、「当選したら、おれのところにこい」とは口にしなかった。が、保岡は、小渕や橋本との関係から、当選したら田中のもとに馳せ参じるつもりでいた。
数日後、保岡は、二階堂の秘書が激怒しているという話を耳にした。
「保岡は、なぜ二階堂のところにあいさつにこないのか。なぜ、柴立と田中先生の家に行ったのか」
そこで、あらためて二階堂のもとにあいさつに出向くという一幕もあった。
なお、宏池会には、選挙直前に仁義を切った。大平正芳会長に、田中派として出馬することを伝えた。
大平は、了承した。
「田中派とは、親戚派閥だ。どっちから出ても、いい。がんばれ」
昭和四十七年十一月十三日、田中角栄首相は、衆議院を解散した。保岡は、ただちに各方面の関係者に電報を打った。
「カイサン ヤスオカヲタノム」
いわゆる、解散電報である。いまでこそテレビのニュース番組ですぐに知ることができるが、この当時、テレビはそれほど
普及していなかった。解散電報を打つのが、候補者の役目の一つであった。
発信人には、橋本登美三郎幹事長の名前を使った。幹事長の命令とあれば、手を抜くわけにはいかない。幹事長の力は、それだけ絶大であった。
だが、橋本幹事長から注意を受けた。
「きみは、公認じゃないんだから、ぼくの名前を簡単に使っては駄目だよ。ぼくの名前の後に“秘書”と入れるならいいけどさ」
自民党公認候補は、現職の豊永光だ。
保岡はおもった。
<橋本先生は、真面目な方だな>
全国唯一の一人区である奄美群島区は、代議士がしょっちゅう交代する選挙区であった。平成二年に議会開設百周年を迎えるが、百年間で重複などをのぞくと一人当たりの議員生活が平均で四年あまりと極端に短かかった。もっとも長くても、戦前の金井正夫代議士の十三年である。
昭和二十八年に本土復帰してからは、外務官僚出身の伊東隆治と保岡の父親で旧内務省出身の保岡武久の二人が交代交代で代議士をつとめた。二人とも自民党員だが、伊東は佐藤派、保岡は池田派と派閥を別にした。選挙では、現職が党公認で立候補し、野に在るときは無所属で立候補した。
そのため、党も奄美群島区の選挙には手を出さず、中立の姿勢を取っていた。どちらが勝っても自民党に入党する。党勢には影響がない。そこで、党に代わって派閥が候補者を応援した。いうなれば、自民党の派閥間の選挙である。橋本は、田中派だが、幹事長という立場にある。解散電報を注意したのは、そのような理由からだ。ただし、そうはいっても内々に応援してくれた。
総選挙の結果、保岡は、三万八千三百五票を獲得した。豊に八千票もの差をつけ、みごと初当選をはたした。
当選直後、橋本幹事長から電話がかかってきた。
「きみを追加公認したい。いいか」
保岡は、元気よく答えた。
「はい、もちろんです」
保岡は、晴れて自民党に入党し、田中派入りした。
初当選したばかりの保岡が、まず取り組んだのは政府のさとうきび買上げ価格の引き上げであった。さとうきびは、奄美群島の基盤産業で、奄美の生命であった。が、政府の買上げ価格は六千九百五十円と安く、生産農家の生活は苦しかった。
鹿児島県も、さとうきびの生産農家が多かった。鹿児島三区選出の山中貞則は、演説で訴えていた。
「わたしが、機関銃でもって大蔵省の金庫を開ける」
山中は、大蔵省と強談判で答えを出す発想であった。が、その頃、毎年五十円づつぐらいしか上がらなかった。
その理由は、ビート(さとう大根)との関係によるものであった。ビートからは、白砂糖ができる。が、さとうきびは黒砂糖しかできない。黒砂糖の糖(ざらめ)を精製し、はじめて白砂糖になる。いうなれば、さとうきびは原料、ビートは製品だ。
洋服(ビート)の値段は生地(さとうきび)よりも安い、というルールでずっと抑えられてきたのである。
保岡は、奮い立った。
<これでは、奄美の農業が滅びてしまう。価格の引き上げなくして、奄美の農家は救われない>
保岡は、自民党農林部会に所属し、懸命に訴えた。
「ビートは、機械化が進み、生産性が上がっている。それに、ビートができるところは他の農作物もできる。しかし、奄美はサトウキビしかできない。基盤整備の予算も伸びていないので機械化は進まず、生産性も上がらない。それなのに、ビートと比較されてはかなわない。奄美の農家は、サトウキビの生産性向上の余地がない。いつまでも、大きな差がつづく。こんな馬鹿な農政があるか」
また、奄美のことを考える拠点づくりにも汗を流した。それまで自民党には、隔絶外海離島である奄美を政策的に取り上げる機関がなかった。保岡は、先輩の国会議員を説得して歩いた。
その苦労が実り、昭和四十八年六月、党地方行政部会のなかに奄美振興対策小委員会を設置することができた。
さらに、愛知揆一蔵相、二階堂官房長官、奄美群島を所管する江崎真澄自治相らにも陳情し、予算委員会の分科会でも質問した。
昭和四十八年夏、生産者米価の引き上げをめぐり、農林部会の米価問題小委員会では白熱した議論が展開された。
全国各地から集まった大勢の農民が国会周辺を取り囲み、デモもおこなった。その光景をはじめて目の当たりにした保岡は、おどろいた。
<すごいな。こんなことをやるんだ>
保岡は、ふとひらめいた。
<ちょっと待てよ。さとうきびもやったらどうだろうか>
保岡は、思い立ったら吉日とばかりに、さっそく行動を起こした。いわゆるベトコン議員の代表格である中川一郎や湊哲郎ら農林部会の幹部に相談した。
かれらの理解を得て、農林部会の中に「さとうきび価格対策小委員会」を設立した。委員長には、農林部会副部会長で二回生の江藤隆美を据えた。
政府のさとうきび買上げ価格が決定するのは、十一月である。その直前に、決起集会をぶつけることにした。沖縄県、鹿児島県、奄美群島などの生産農家に呼びかけ、一千五百人の陳情団を結成した。
陳情団の船は、奄美群島から出港した。各島々に寄り、参加者を乗せながら中央区の晴海埠頭に入港した。
鹿児島県選出の柴立芳文自民党参議院議員や社会党で同じく奄美出身の宮原貞光参議院議員らと出迎えた保岡は、目頭が熱くなった。
<よく、ここまでやってきてくれた>
晴海での決起集会を終えた後、国会周辺をデモ後進した。農作物に関するデモは、コメをのぞくとはじめてのことであった。
その足で、陳情団の代表とともに目白台の田中首相邸に出向いた。保岡は、田中首相に懸命に訴えた。
「昭和四十年当時、コメとさとうきびの価格はともに六千円でした。しかし、コメは、いまや一万円だというのに、さとうきびは六千九百五十円です。これは、ビートとの関係によるものです。ビートも、コメとは三千円の差がついている。しかし、ビートは機械化により生産性があがっています。輪作も、できます。しかし、奄美は、さとうきびしかできません。台風に強いさとうきびにしがみつくしか、ないんです。だが、機械化も、基盤整備もされていない。それなのに、価格を抑えられるのはおかしい。コメとおなじにしてください」
田中首相は、即答した。
「わかった」
田中首相は、なんと保岡らの眼の前で愛知揆一蔵相に電話をかけた。
「さとうきびの買上げ価格だがな、奨励金を乗せて米一俵とおなじにしろ。九千九百九十九円じゃ、駄目だ。一万円だぞ。さとうきびの価格を上げてやれないようでは、政治じゃない」
保岡は、おどろきを隠せなかった。陳情団の代表者も、みな呆気にとられている。無理もない。これまで、毎年五十円づつしか上がらなかった価格が一気に三千円もアップするのである。
保岡は、田中首相の決断力に舌を巻いた。
<すごいひとだ>
奄美は、おおいに沸き返っていた。
保岡は、いろいろなひとから握手を求められたり、声をかけられたりした。
「保岡さんに陳情すれば、上がるんだね」
「あなたが、理屈をきちんと整理して理路整然といってくれたおかげだよ」
保岡は、英雄になった気分であった。田中首相の言葉を、あらためて思い起こした。
<政治とは、決断と実行なんだな>
なお、さとうきびの価格は、その後起こったオイルショックで物価が上昇した影響もあったが、翌年に一万五千円となり、
米価を抜く。
いっぽう、保岡は、奄美群島の予算の引き上げにも汗を流した。保岡が初当選した昭和四十七年度の奄美の予算は、約二十六億円であった。それが、四十八年度は、四十億二千万円となり、奄美群島振興開発特別措置法が成立した昭和四十九年には、五十五億九千万円と飛躍的に増えた。
田中首相は、人的支援も惜しまなかった。
第二次田中内閣の金丸信建設相、江崎真澄自治相、改造内閣の亀岡高夫建設相、徳永正利運輸相ら自派の大臣を、どんどん奄美に視察に行かせた。大臣が視察すれば、担当の局長や課長、県からは知事や副知事、部課長などもすべて同行する。事務当局も、奄美の現状を理解しやすく、その後の仕事がやりやすくなるのである。
なお、奄美の予算は田中内閣退陣後も伸び続けた。五十二年度は、百三十六億三千四百四万円、五十四年度は、二百三十四億千二百三十三万円、五十七年度には二百五十億円四千三百四十九万円となる。
また、奄美の公共投資額も増えた。昭和四十八年度の人口一人あたりの公共投資額(国費ベース)の全国平均は、二万四千八百円であった。が、奄美は二万四千五百円と全国平均を三百円下回っていた。が、昭和五十年度に一気に四万千二百円と跳ね上がった。全国平均の二万四千四百円を、なんと一万六千八百円も上回ったのである。
衆議院議員の任期満了を五ヶ月後にひかえた昭和五十一年七月二十七日、保岡は、与論島を戸別訪問していた。選挙運動のため、ここのところ毎週地元に帰っていた。
そこへ、衝撃的なニュースが飛び込んできた。
「田中前首相が、ロッキード事件で逮捕された」
保岡は、その後の予定を変更し、急遽上京した。砂防会館にある原長栄弁護士の事務所に顔を出した。原弁護士は、田中の後援会「越山会」の会長であった。
原弁護士は言った。
「これから、東京拘置所に面会に行く」
保岡は、お願いした。
「わたしも、連れていってください」
「いや、そうはいかない」
「どうしてですか」
「角さんが、今日はわたし一人でいいといっている。それに、角さんから伝言を預かっているよ」
「なんですか」
「弁護団は、角さんが釈放されてから編成するが、いまその人選をしている。きみの名前もあがっているので、もしそうなったら力になってほしい、といっていた」
この当時、田中派の議員で弁護士の資格をもっているのは、保岡ただ一人であった。
保岡は、うなずいた。
「もちろんです」
保岡は、心に決めた。
<おれは、田中先生に恩を受けている。尽くさないといけない。田中先生が保釈されるまで、このまま東京に残ろう>
保岡は、そのことを地元に伝えた。
が、地元からワンワンいってきた。
「なにをいっているんだ。早く、こっちに帰ってきてほしい。こっちも混乱しているので説明してくれ」
しかし、保岡は、きっぱりといった。
「仮にどうであろうと、わたしは敵前逃亡はしない。田中先生といっしょにいる」
この敵前逃亡という言葉が、地元紙に大きく取り上げられ、こっぴどく叩かれた。
「国民を敵呼ばわりするとは、何事だ」
マスコミも、世論も、田中の罪を暴こうとする“一億総検事”状態だったのである。
前回の総選挙で保岡に破れ、リターンマッチに燃える豊永光陣営の選挙運動も活発になった。
しかし、保岡の信念は揺るがなかった。
結局、保岡は、田中が保釈される八月十七日までの三週間、東京に留まった。
出所の日、保岡は、東京拘置所に出迎えにいった。橋本龍太郎ら三、四人の若手議員の姿もあった。東京拘置所の門の前には、多数のマスコミが詰めかけていた。空には、ヘリコプターも飛んでいた。
田中は、東京拘置所から目白台の私邸にもどった。車を降りた田中は、ようやくほっとしたような表情を見せた。
田中邸には、田中派の幹部らが待機していた。田中は言った。
「いやぁ、拘置所の中は暑かったな」
「取調べは、どうでしたか」
「ほとんど何も聞かれなかったよ。それに質問されても、身におぼえがないから答えられんよ」
のちに、保岡は検事調書に眼を通すが、調書らしい調書はなかった。
田中派の議員は、それぞれの選挙区に散っていた。結束力の強さを誇る田中派といえども、マスコミにワンワン騒ぎたてられ、動揺していた。必死になって釈明に歩いた。
田中の保釈を見届けた保岡も、できれば奄美に帰りたかった。が、保岡の仲人である橋本登美三郎も近くロッキード事件で逮捕されるという情報が流れている。そうもいかない状況であった。
保岡は、小渕恵三らと相談した。
小渕はいった。
「きみは、弁護士だ。橋本先生の力になってやってほしい」
八月二十一日朝、保岡は、渋谷区富ケ谷の橋本邸を訪ねた。保岡は、できるかぎりのことを懸命に助言した。
「先生、弁護士とよく相談してから供述するようにしてください」
やがて、検察がやってきた。橋本は、受託収賄容疑で逮捕された。保岡は、橋本が保釈された九月中旬まで東京に残り、その後、奄美にようやく帰った。
十一月十五日、総選挙が公示された。
田中派議員は、ロッキード事件の影響で苦戦を強いられた。
しかし、保岡は、堂々と田中擁護論をぶちあげた。
「われわれは、田中先生にお世話になり、さとうきびの価格を上げてもらったではないですか。あのとき、東京に陳情に行った千人のひとは、そのことをよくわかっているでしょう。公共投資額も増え、道路もこんなに良くなった。こういうときこそ、田中先生に恩返しをしないといけません」
痛烈な野次も、飛んだ。
「おまえも、毒饅頭を喰ったんじゃないのか!」
毒饅頭、つまりロッキード社が送ったとされる賄賂のことである。
しかし、保岡は、ひるまなかった。
「さとうきびの振興は、どういう意味をもっているのか、みなさん、よく考えてみてください。これは、奄美の商店街のためにもなっているんですよ。売れ行きが伸びれば、設備投資をしたくなる。銀行に眠っているお金を引き出す。店が大きくなり、品揃えもよくなる。消費も伸びていく。さとうきびの価格が上がるだけで、こんなにすごい奄美の経済ができたじゃないですか。政治とは、田中先生がおっしゃるように決断と実行なんです。田中先生は無罪の罪と言っておられます。わたしは、田中先生を信じます」
十二月五日、総選挙がおこなわれた。
保岡は、二期連続の当選をはたした。
それも、次点の豊との差は、なんと一万八千票。奄美群島区の選挙史上、希にみる大差をつけての勝利であった。
保岡はおもった。
<世のため、人のため、真剣にがんばれば答えはついてくる。それにしても、陳情の効果は大きかった>
さて、田中が保釈されてまもなく弁護団が編成された。保岡も、その一人として名を連ねた。が、保岡には国会の仕事があり、時間的制約がある。そこで、保岡の中央大学法学部時代の同級生である稲見友之をくわえてもらった。稲見なら、なんでも相談できる。自分の考えや意見をいえば、専門家としてこなしてくれるのでやりやすかった。
弁護団の部屋は、田中の個人事務所のあるイトーピア平河町ビルの二階に設けられた。入口を入って右側が原法律事務所、左側が弁護団の会議室となった。
昭和五十二年一月二十七日、第一回の公判審理がおこなわれることになった。
この日は、ひどく寒い朝であった。東京地裁の玄関前は、多くのマスコミでごった返していた。脚立に乗ったカメラマンが、玄関を正面にして左右を取り囲む。
やがて、田中を乗せた車が到着した。
田中は、カメラの放列の谷間をゆっくりと歩いた。保岡は、玄関で田中を出迎えた。
保岡も、弁護人として公判で質問にも立った。が、主な仕事は総理大臣の職務権限についての下調べであった。運輸省航空局のOBを一人ひとり訪ね、許認可制度はどういうものなのか、閣議決定にはどういうものがあるのか、などを聞いて歩いた。
また、稲見友之弁護士とホテルニューオータニの一室を借り切った。保岡らのスタッフとして数人の弁護士を雇い、職務権限についてしらみ潰しに調べた。
こちらが把握していないことを聞かれ、狼狽すれば裁判官に悪い印象を与える。その隙を突かれ、おたおたすれば、証人の信頼性もぐんと下がる。一時間の尋問には、十時間ほど時間をかけるのが鉄則であった。
さらに、検事の立場に立ち、気づかないまちがいがないかを徹底的に探した。あらゆる角度から検証し、これなら検事に突っ込まれてもぼろが出ないと見極める。そのうえで、もっともいい資料を選んでいった。
昭和五十五年からの公判では、職務権限が最大の論点になった。鈴木内閣の大蔵政務次官であった保岡は、内閣改造後、自民党財政部会長に就任する予定であった。が、公判に集中的に取り組むため、党の役職をすべて断った。
いっぽう、田中の公判には、常に小沢一郎の姿があった。小沢は、田中弁護団に与えられた席に座り、じっと傍聴していた。検事の在り方、弁護士の在り方、田中の対応の仕方など、あらゆる面で勉強になったのではないかと保岡はおもう。
田中にとっても、特にかわいがっている小沢の姿を毎回眼にすることは、心強かったであろう。
田中は、いつも毅然としていた。公判にはかならず出席し、裁判官にはきちんと礼をした。なに一つ、非のうちどころがないほど堂々たるものであった。
休憩時間は、警護の関係で東京地裁内に設けられた控室で過ごした。弁当食べながら四方山話に花を咲かせた。
保岡は、いまでも田中に職務権限はないと思っている。
「検事は、『総理には、閣議で決定した大型化、大量輸送化という方針に基づいて運輸大臣を指揮監督する権限を有する』という。が、許認可と、新機種選定作業は関係がない。機種は、独自に航空会社が決めるものだ。内閣は、ガイドラインを決めるだけである。それだけで追い込むことはできない。ところが、事実上の密接関連行為だという。権限はなくても、それに密接に関連することをやれば罪になるという判例もある。それを楯にして、検察は一所懸命になった」
「そもそも、中立であるべき裁判所が起訴免責を認めたことが大間違いだ。違法収集証拠を有罪認定の証拠にするなど、あってはならないことだ」
保岡は、ロッキード事件は、あくまで田中は無罪だと信じている。
「田中さんは、いろいろなところから献金を受けていた。丸紅からの献金も、ゼロではなかっただろう。が、丸紅は、検察の方針に乗っかり、自分たちはロッキード社のメッセンジャーであり、ただロッキード社の賄賂をもっていっただけだという戦術をとった。あくまでも、田中とロッキード社との直接交渉だという。が、それは事実に基づかない。無理がある。丸紅は、共犯の罪に問われかねないにもかかわらず、検察の方針に添えば少なくとも情状で罪が軽くなるとでも思ったのか。贈賄する意思はない、ただつないだだけだと主張した。が、田中さんは、『断じてない』といっておられた。ただし、それは、ああいう形で献金をもらったことはないということだろう。丸紅からの献金が、まったくないわけがない」
田中には、裁判の進め方について強い考えがあった。
「あるひとは、『ロッキードからもらったということにして、趣旨を争いなさい』といっていた。仮に金銭を受け取ったとしても、職務権限がないと主張するのでは、抽象的でまことに弱い。だから受け取ったことにして、職務権限や金の趣旨を争ったほうが明快だというのだ。しかも、それとその頃の丸紅の献金をきちんと浮き上がらせ、それと対比させ、検察が主張する日時に金の受け渡しがなかったことを立証すればいい、との意見もあった。が、田中さんは、そのような意見には耳を貸さなかった」
「総理として、あのような局面で直に誤解につながる丸紅の献金に言及することは死んでも出来ないことだろう。総理の地位は神聖なものだ。それを汚すわけにはいかないという思いを言葉の端々で強く感じた。諸外国に、そのような形で印象づけるのは万死に値するという感じだった。それに、逮捕された当時、田中さんは、五十八歳と若かった。かならず無罪になって、復権するつもりだからこそ、妥協はしなかったのではないか」
昭和五十八年十月十二日、東京地裁は田中に懲役四年、追徴金五億円の実刑判決をくだした。田中は、ただちに控訴した。
田中は、一審のときと比べて冷静になったという。
「田中さんは、自分の意見を一方的におっしゃって、こちらの話を言いだす余裕を与えない人だった。しかし、二審では、こちらが真剣に主張すれば、じっと黙って耳を傾けてくださった。最後まで話を聞いてから、『わかった。じゃ、そうしよう』いう姿勢に変わった。それが印象的であった」
□
昭和五十九年暮れ、保岡興治は、小沢一郎からひそかに打ち明けられた。
「年明けに、竹下(登)さんを中心とする勉強会を旗揚げする。今度、その準備会を開くので、あなたも参加してくれ」
保岡は、田中派内では小沢ともっとも仲が良かった。おたがいに、論理的で戦略的な物の考え方をするので波長が合った。
外国に行ったり、ゴルフをしたり、いつもいっしょに行動していた。
しかし、保岡は、その誘いを断った。
「わたしは、田中弁護団の一人だ。裁判が決着つくまで、田中先生のもとを離れるわけにはいかない。それに、郷里鹿児島の大先輩である二階堂(進)先生を、置いていくわけにはいかない。先は、まだ長い。いつか、またいっしょにやれる日がくる。悪いけど、先にいってくれないか」
保岡は、仮に田中の裁判がなかったら、あるいは二階堂の存在がなかったら、小沢と行動をともにしたであろう。が、その二つともからんでいる。二人に対する義理を果たした後、将来のことを考えればいいという気持ちであった。
小沢は、納得してくれた。
「わかった。あなたの気持ちを理解する」
なお、保岡は、自分を信頼し、早い段階で誘ってくれた小沢との友情を大事にし、創政会の旗揚げについては、いっさいだれにも洩らさなかった。
昭和六十年二月七日、竹下を会長とする創政会が結成された。二十七日に田中が脳梗塞で倒れたこともあり、田中派は、創政会、非創政会、中間派の三つに分かれた。
昭和六十二年七月四日、創政会が発展・改組し、竹下派経世会が発足した。これにより田中派は、経世会と二階堂を中心とする二階堂グループに分裂した。非創政会であった保岡は、経世会に参加せず、二階堂グループの事務局長的な立場となった。
昭和六十三年六月十八日、川崎市助役のリクルート社未公開株取得による不当利益が発覚し、いわゆるリクルート事件の発端となった。リクルート社側から政治家周辺への株譲渡や多額献金がしだいに表面化し、国民の政治不信が噴き出した。
保岡は、安倍晋太郎幹事長の下で政治改革担当の副幹事長となった。後藤田正晴を委員長とする政治改革委員会、いわゆる後藤田委員会にも名を連ねた。
保岡は、政治改革に懸命に取り組んだ。日本では、戦後ほぼ十年ごとに大型の疑獄事件が発生していた。これまでも事あるごとに再発防止策が講じられながら、なぜ政治腐敗を一掃できるにいるのか。政治の仕組みの根本にまで立ち返り、真剣に考えた。
政治家個人の政治倫理も、徹底しなければならないが、心構えや自覚だけでは解決しない。また、いたずらに厳しい規制制度では腐敗はいっそう隠微に内向するだけだ。
この問題を突き詰めていくと、結局は、中選挙区制という選挙の仕組みの問題に行き当たった。中選挙区制は、必然的に同士討ちを招き、政党間の争いのための民主主義の合理的なコスト以外に、水ぶくれ的に費用を要する。この部分を削らない限り、金のかかり過ぎる政治を改めることはできず、政治腐敗を防ぐことはでない。
保岡は、「政治改革の本質は、選挙制度改革である」という考えのもと、富士山麓に籠もり、一ヶ月かけて「いま、何を政治改革か」という論文をまとめた。この論文は、平成元年五月に党議決定した「政治改革大綱」の基本となった。
なお、論文をまとめるにあたり、国会図書館政治議会課長であった成田憲彦を徹底的に使った。政治情報を具体的に教え、何度も書き直しをさせた。また、一般的な政治制度を熟知している成田に整合性のない部分を客観的に指摘してもらった。現実の政治の歴史的な改革の動きに次第に引き込まれ、成田は、のちに細川首相の秘書官となる。
平成元年八月、ポスト宇野を決める自民党総裁選がおこなわれることになった。
竹下、安倍、河本の三派は、海部俊樹を擁立した。党内の過半数を閉める三派の連携により、海部の当選は確実であった。
しかし、無風選挙では形がつかない。
保岡は、小沢一郎らに頼まれた。
「そっちからも、だれかを担いでくれ」
保岡らは、宮沢派の支援を受けて二階堂グループの林義郎を擁立した。保岡は、林選対の責任者となった。
結局、総裁選には、海部、林、それに自由革新連盟の亀井静香らが推す石原慎太郎の三人が立候補した。
選挙の結果、海部が新総裁に選出された。
林は、総裁選の形を整えた功績という意味もあり、海部総裁に要請された。
「挙党内閣ということで、入閣してほしい」
が、林は断った。
「わたしは、いい。代わりに、保岡君を推薦する」
このとき、保岡は、いわゆる大臣適齢期の六回生であった。マスコミにも、入閣候補のひとりとして保岡の名前が上がっていた。
しかし、経世会に参加した同期の仲間より先に入閣させるわけにはいかないと横やりが入り、保岡の入閣は見送られた。
平成二年二月、総選挙がおこなわれた。
六期連続当選中の保岡は、自信をもってのぞんだ。が、三度目の対決となる無所属の徳田虎雄に思わぬ苦戦を強いられた。
医療法人徳州会の理事長である徳田には、豊富な資金力がある。全国の徳州会病院から百五十人ほどの職員を運動員として招集し、すさまじいまでの選挙戦を展開した。
投・開票の結果、保岡は、わずか二千票差で落選の憂き目にあった。が、政治改革への情熱はいささかも衰えることはなかった。捲土重来を期し、地元で選挙運動をつづけるかたわら時間があれば上京した。自民党本部の政治改革本部に詰め、腐敗防止法案づくりに心血を注いだ。やはり政治改革を推進する小沢一郎幹事長に、政治改革本部の特別顧問として部屋も与えられた。
平成四年八月、東京佐川急便の不正融資事件を捜査する過程で、東京佐川急便が経世会の金丸信会長側に五億円をひそかに献金していたことが発覚した。
保岡は、経世会の小沢一郎会長代行からひそかに相談を受けた。
「どのような対応策があるか、いろいろ調べてほしい」
保岡は、ある場所で資料を調べ、対応策を練った。
<罪を認めて、逮捕されないようにするべきか。それとも、徹底的に否定して、逮捕されるところにいくべきか。そのへんの取り引きを上手にやり、逮捕されないほうにもっていくほうが大事だ。ここは、罪を認めて、衆議院議員を辞職する。そうすれば、略式起訴で済み、逮捕はされないだろう>
しかし、小沢は、罪を認めず、とことん裁判で争うという強硬路線を取った。
保岡は、複雑な心境であった。
<小沢さんの考え方は、金丸さんを本当に守るということになるのだろうか>
結局、金丸は、罪を認めて略式起訴の道を選んだ。
九月二十八日、検察当局は、金丸を政治資金規正法の量的制限違反の罪で、東京簡易裁判所に略式起訴した。最高刑ながら、罰金二十万円で決着を見た。
平成五年六月十八日、衆議院本会議で宮沢内閣不信任決議案の採決がおこなわれた。羽田・小沢グループは、政治改革法案における党執行部の対応を不服とし、造反。内閣不信任決議案は可決し、宮沢首相は、衆議院を解散した。
羽田・小沢グループの四十四人は、自民党を離党し、新生党を結党した。
地元にいた保岡のもとに、新生党代表幹事に就任した小沢から電話がかかってきた。
「いっしょに、やらないか」
新生党に参加しないか、というのである。
保岡は、きっぱりと断った。
「わたしは、浪人中の身です。今回は、自民党から出ます」
この総選挙から、奄美群島区は、鹿児島一区との合区となった。この選挙で小沢は保岡に対し、旧鹿児島一区の前議員長野祐也を新進党公認でぶつけてきた。投・開票の結果、保岡はトップ当選し、経世会に入会した。
その後、保岡は、平成六年六月、村山内閣発足後、自民党を離党。海部俊樹元首相グループと新党みらいの統一会派「高志会」に所属し、十二月の新進党結成に参加。
平成七年八月、自民党に復党し、平成八年初の小選挙区比例代表並立制で、故郷の奄美の二区からは、新人の園田修光代議士をかかえて当選させ、鹿児島の県都一区で再選を果たす。平成十年十二月、山崎派を結成し、これに参加。
平成十二年七月、第二次森内閣の法務大臣に就任する。
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保岡は、政界の仕事師と呼ばれている。なにしろ、これまで手がけた議員立法は、伝統工芸品産業振興法、選挙腐敗防止法など政治改革関連法五本、民事執行法、ストックオプション制度導入など商法改正三本、金融機能早期健全化など金融改革関連法五本、定期借家権制度の創設法など二十数本、関わった議員立法をふくめると三十本を越える。
三十三本もの議員立法を手がけ、戦後最大の議員立法提案者といわれる田中角栄元首相の業績に匹敵する。
田中は、物事を戦略的に考えていた。何かをするために、どういう作戦を立てればいいのか、総合的に見る力があった。そして、決断と実行の政治をおこなっていた。
いま、日本の政治に欠けているのは、そこである。戦略を立てようという意識の政治家が少ない。戸別の問題については、バタバタとやるが、官僚が抵抗すれば、すぐに腰が引けてしまう。
もはや、おれが、おれが、という手柄争いをする時代ではない。戦略についてみんなで侃々諤々の議論をし、だれも文句がいえないような骨太の絵を書くことが大事だ。そのうえで、官僚に仕事を命じる。そうすれば、官僚も抵抗することはできない。
田中は、マネージメントもうまかった。こう、いっていた。
「政界は、海千山千の動物園だ。いろいろな人がいるが、その目的のために、みんな使えるんだ」
保岡も、そう思う。政策の得意な人は、それに適する閣僚や政務調査会の責任者に据える。根回しの得意な人や国民の陳情に応えて政治のサービスに力の入る人は、それがおこないやすい閣僚や国会対策でがんばってもらう。そのような適材適所の布陣を組んでいた。
田中政治は、金権腐敗、族議員化、サービス型政治の極といった負の部分を強調するひともいる。が、田中政治は、日本の成功システムとして一時代を築いた。欧米モデルという国民のコンセンサスを得た国家目標があったので、それをひたすら目指し、経済の拡大を企てる。サービスこそ政治という姿・形をサービスこそ政治という欧米モデルを、みごとに中選挙区を活かし、実現した。役割を分担し、役所と連携し、サービスをつなぎ、地位と金をつくれるようにして、順番に族議員を育てていった。そうして、なんでも玉手箱、どこを引き出しても国民が求めているサービスがあるという巨大な田中派をつくった。
だが、その手法は、行き過ぎがあり、節度を失ったことも事実だ。
いま、田中政治を総括し、日本は何をすべきかに意識を集中させ、みんなが持てる力を合わせて国家のために一所懸命に取り組むことが必要だ。田中政治が一時代を築くことができたのは、時代が求めていたいい部分があったからだ。しかし、かつては成功システムであったものも、時代に合わなくなったら、大胆に変えていく必要がある、と保岡は思う。
大下英治著作 「 闘争!角栄学校(全3巻)講談社 」より抜粋
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